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滋賀県の女性経営者にインタビュー

2019.08.09

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りーしゅんライター

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滋賀県の女性経営者インタビュー 03|北川陽子さん(ファブリカ村 )

まだコミュニティビジネスなどという構想が大々的でなかった時代に、新たな風をもたらしたファブリカ村。2009年、東近江市・能登川に誕生し、2012年にはココクール マザーレイク・セレクションに選出。NHK番組でも取り上げられた同施設の運営を担うのは、爽やかな笑顔と美しい瞳が印象的なファブリカ村・村長 北川陽子さん。

同施設の母体でかつてこの地域の地場産業を支えていた「北川織物工場」の継承者でもあります。そんな今年で10年目を迎えるファブリカ村のこれまでの経緯、また同施設が大切にする「丁寧に作られたもの・こと」を通して現代の私たちに必要とされる生き方について、moa編集部が北川さんにお話を伺ってきました!

爽やかな笑顔で出迎えて下さった北川さん

取材当日の天気は大雨。激しい雨が降りしきる中、爽やかな笑顔で編集部を出迎えて下さった北川さん。

ファブリカ村がある場所はかつて北川織物工場があった場所。施設内には当時使われていた大きなシャトル織機が鎮座し、一際存在感を放っていました。

ファブリカ村の母体、北川織物工場が創設されたのは日本の経済が大いに賑わっていた1964年

ファブリカ村の母体・北川織物工場が創設されたのは1964年。東京オリンピックや新幹線開通など日本の経済が急成長していた時代です。

そんな産業の中心となっていたのは繊維産業。特に滋賀県は琵琶湖が真ん中にあることから豊かな水と湿潤な気候に恵まれ、「高島ちぢみ」や「長浜ちりめん」、「近江上布」といった天然繊維が古くより栄え、地場産業が大いに賑わっていました。

中でもとりわけ「近江上布」の主繊維である麻は神道の世界においても神聖な植物として扱われ、吸水性・通気性・強度に優れ衣類の他にもロープや蚊帳など様々な用途に用いられてきました。

そうした麻から、主に婚礼の嫁入り道具である寝装品や服地などを製造し、問屋へ卸す家業を長年営んできた北川織物工場。舵を取っていたのは北川さんのお父様。

北川家の2人姉妹の長女に産まれ、父の背中を幼い頃から目にしてきた北川さんは「いずれはここを継ぐお婿さんをもらい、この世界に進むのだ」と自らの使命を感じていたといいます。

二十歳で北川織物工場に入社

高校卒業後は染色の知識を身につけるため専門の短大へ進学。

卒業後の1981年、二十歳にして「織り」「染め」の幅広い専門的知識を扱うテキスタイルデザイナーとして本格的に父の工場へと入社された北川さん。

当時・1980年代は日本の有名デザイナーが脚光を浴びていた時代。ヨウジヤマモトやコムデギャルソンなど、大御所デザイナーズブランドが国内外問わず活躍し、東京コレクションやパリコレといったファッションの祭典もスタートした華々しい時代でした。

大きな転換期を迎えていた地場産業

地場産業においても、大きな転換期を迎えていた同時代。時代の変化と共に世間の嫁入り道具への考え方が薄れ、問屋からの発注が激減。

生き残る道として新たな道を模索した結果、従来の受注された物をただ作る「受け身型」から、自分たちの商品を提案して仕事をもらう「提案型」へと北川織物工場の営業形態をシフトさせることに。

北川さんもこの転換期に会社を支えるべく東京での展示会を企画・開催するなど大いに貢献。「大きな仕事を任せてもらうことができ、とても充実していた。」といいます。

北川さんが味わった大きな挫折

けれど順風満帆だった社会人生活のなか、ある時北川さんは大きな挫折を味わいます。

それは、ある有名デザイナーに生地を依頼されたときのことでした。特殊な技法である絣(かすり)を特徴とした麻織物は、有名なデザイナーにも高評価をされていました。北川織物工場もこの頃、有名ブランドから生地を直接依頼されることが多かったのだそう。

北川さんは依頼を受けた生地を約1年かけ丁寧に織りあげ、厳しい検査に合格。生地は無事に納品され製造の段階へと移りましたが、そこで問題が発覚。

なんと検査の時には見つけられなかった麻生地特有の不具合により、仕上がった衣服は全てB級扱いとなってしまったのです。さらにはデザイナーブランドのネームバリューを考慮し、完成した衣服は全て焼却処分されることに。

検査にはクリアしていたので代金こそ全額払いこんでもらえたものの、北川さんが1年かけて織りあげた作品はリフォームする手間も無く全て灰になってしまいました。

「『大事に作ること』とビジネスとの間のギャップを感じた。違うな、と直感で感じた。それが自分の今までの中で特に大きな挫折で、大きな気付きの瞬間だった。」と語る北川さん。

消費者と生産者の「もの」への認識が大きく揺らいでいた時代

世間の中でも、消費者と生産者の「もの」への認識が大きく揺らいでいた時代。

大量生産しやすい化学繊維が登場し、ファストファッション・大量生産型の流れがじわじわと広がりを見せ始め、「丁寧にものを作る作家の仕事が減り、また地場産業が無くても大丈夫という雰囲気さえも感じた。」当時を振り返り苦い表情で語る北川さん。

けれど「買う側だけが悪いわけではない。私たち生産者側も、ものの価値を見失っていたことに大きな責任がある。」と北川さん。

趣味として出店を始めた「アートイン長浜」で得た多くの収穫がファブリカ村構想の一助に

ちょうどこの頃から、北川さんは趣味としてマーケットへの出店を始めます。きっかけはこの頃から長浜市で始まった「アートイン長浜」。

全国から様々なジャンルの作家が集まりマーケットを開く同イベントに、北川さんも麻で作った衣服などを出店。そこで初めて自分の作品に対しての消費者の反応を目の当たりにされました。

「今までは自分が作った生地で作られたものをどんな人が買っていき、どんな反応を持たれているのか全く分からなかった。」中でも意表を突かれたのが、「染めムラやいわゆるB級品に分類されていた傷物の商品が消費者からすると「味」とみなされ好意的にとってもらえたこと。いい意味での衝撃だった。また直接の反応ゆえに改善にも早く取り組めて、商品作りにおいてもいい経験になった。」

さらには「イベントで出会った今まで深く知りえなかった分野の作家さんたちとの出会いが、自分にとって大きな財産となった。」といいます。

「このイベントで経験した、消費者との直接の対話や作家さんとの出会いが『ファブリカ村』の構想を練る要素として、大きな意味を成してくれた。」

お父様の死によって工場は閉鎖。自社ブランドを本格的に売り出すことに

こうして北川さんの中に投じられたビジネスへの疑問符が徐々に大きくなり始めていた頃、2001年に北川さんのお父様が急死。

「職人気質でとにかく頑固。しつけにも仕事にもうるさかった。仕事をする中でもよくぶつかっていた。」というお父様。残される北川さんたちに「今まできばってきたんだから大丈夫。あとはやりたいようにやっていけばいい。」という言葉を残して息を引き取られました。

父の亡き後、工場はやむなく閉鎖。北川さんはかねてより自身が立ち上げていた北川織物工場ブランド・fabricaの服を本格的に売り出すことに。

けれどもその頃には、あれほどもてはやされていたデザイナーズブランドも消費者の求める価格とのギャップで賑わいは半減…。

生き残っていくための秘策として、「消費者に求められ飽きさせないものをただ作る・提案するだけではもうだめだ。何か他に、プラスαを転じなくては…。」

思い悩む中で浮かんだのは、「アートイン長浜」でものを通して客と交わした、直接的な対話。「大切なのは消費者の中にものへの価値観を見直すきっかけを与えることではないか。そのために自分がすべきことは、直接的に消費者と生産者が繋がる場を作ることだ!」

こうして北川さんは「作り手と使い手と社会を繋ぐ場」として、スペイン語で工場を意味するファブリカという言葉を結びつけた「ファブリカ村」の構想を思いつきます。

ファブリカ村構想実現に向けて、妹さんと共に行動を開始

早速、様々な起業家セミナーやビジネスカフェに積極的に参加し始めた北川さん。この地域で栄え麻織物を全国へ広く発信するきっかけとなった近江商人の三方よし理念を軸に、実現に向けて舵をとり始めます。

当時は女性起業家は数少なくセミナーへ行っても男性ばかり。それでも「とにかく何か一つでも掴み取って帰る!」ことを目標に、持ち前のポジティブ思考をフルに発揮。学生の頃は大の苦手だったという多くの人の前での発表にも進んで挑戦。

努力を重ね2009年、かつての北川織物工場内に「ファブリカ村」を誕生させます。

当時としては珍しいコミュニティビジネスは、当初は物珍しさから心無い声を聞かれることも多かったといいますが、新たな時代のニーズ=人にフォーカスを当てた『未来に育むものづくりの場所』として瞬く間に話題に。各種メディアにも取り上げられ県外からも注目を集めることになりました。

滋賀から発信する「アーツ&クラフツ」

「滋賀から発信する現代のアーツ&クラフツ」を軸に、滋賀の作家によるショップやギャラリー、カフェ、ステージの設備も整い魅力あるもの・ことが集結するファブリカ村は、「自分たちの生活を今よりもっと心地よくするために、自らの目と耳で感じた素敵なもの・ことと出会える場」であり「自分の夢や想いを実現するための一歩を叶えてくれる場所」として、今や多くの人の大切な場所となっています。

ファブリカ村誕生から10年目を迎える今年、「時代はまた変化し、「消費・浪費の時代」から「ものの大切さ」に重きを置く時代へと転換されようとしている」と北川さんは話します。

施設内には、北川さんの妹さんが手掛けるブランド「jestilo(ジェスティーロ)」の麻の洋服の他、思わず手に取りたくなる滋賀の素敵な作家さんによる作品がいたるところに並べられ、編集部も楽しい出会いにワクワクしました。

現代を生きる私たちに必要なこととは…

丁寧に作られたものを取り入れ、そこから見えてくる幾多のストーリーが買い手の「感じ」「考え」「行動する」ことに大きな影響を及ぼし、私たちの未来の道しるべとなってくれることを、今回の取材で編集部も深く学びました。

今後について伺ってみると、「誕生から10年、数えきれないほどの出会いと繋がりがここで生まれた。今の目標は『学校』。みんなが学べるチャンスを作りここに来た人が自分の可能性を開ける場所にしていきたい。」と北川さん。

2011年からスタートした、市内で子どもが楽しみながら芸術や地域社会と触れ合える子民家「etokoro」の事業にも、北川さんは携わっています。ファブリカ村発足時の想いから、地場産業の魅力を理解し本物を慈しむ心とセンスを幼い頃から養える場として提供したり、他にもファブリカ村内でも子ども向けイベントを多く開催。

また、大人向けには自身の経験から「人と出会うことの大切さ」に焦点を当てたビジネスカフェも開催されています。

moa読者に向けてのメッセージ

「自分にとって大きな転機を与えてくれた『人との出会い』を皆さんにも大切にしてほしい。そのうえで、しっかりとした自分の信念を持ち、人の噂や評判に振り回されないように気を付けて前に進んでいってもらえたら。いったりきたりしながらでもいいから、自分なりのペースで歩みを進めていってください。」

今後もますます目が離せないファブリカ村。ワクワクするもの・ことと出会いに、是非訪れてみて下さいね。ファブリカ村内には素敵なパン屋さん、お花屋さん、アトリエといったお店も軒を連ねていますよ。

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りーしゅんライター

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